Les Artisans
the ORIGIN

『職人たち』という名に込められた想い
一流の職人たちの仕事、
世界に誇る日本人の技術が
一つに集まり形をとる時
内と外、それぞれに複雑な輝きを放ち、
識るものに語りかける

東京・大塚のビルの1階、
骨董品店かこだわりの雑貨店のようでもある。
Les Artisansはそんな『わからない店』だ。
中に入ると、自転車、模型、皮製品、そして時計。
何を取り扱う店なのか、一層わからなくなる。
しかし、これらすべてがオーナー・三島 勤也のこだわりを
表現するものたちなのだ。
ここを起点に『特別なモノ』が生まれ続けている事は
紛れもない事実なのである。

ORIGIN1

始まり

それは、スイス・バーゼルでの出会いだった。1996年、高校を卒業したばかりのLes Artisans代表 三島 勤也と、まだ若い時計職人たち。当時は独立時計師という存在自体が今ほどフォーカスされておらず、それゆえ下請けの仕事をしながら研鑽を積む者も多かった。既に大きな仕事をしているにも関わらず、まだ有名ではない。そんな彼らと交流を持っていたのは、旭時計店の店主である勤也の父だった。

「そのビジネスセンスは半端ではなかった」

当時ユリス ナルダンやジェラルド ジェンタなど、日本ではまだ取扱いの少なかったブランドにいち早く目をつけて販路を開拓し、販売量においてブランドから表彰されるなど、その先見の明は当時子供だった彼の目にも尋常でなく写った。
自分に同じものはない。そう考えた勤也は様々な職人たちとの交流を深めていく。

バーゼルで父を介して出会ったアントワーヌ・プレジウソ氏とヴィンセント・カラブレーゼ氏。
まだ個人の名前で売り出すような時代ではなく、大手メーカーの下請けを主に行っていた彼らは、時計業界が大きく移り変わると共に独立時計師として名を馳せ、個人の活動の場を広げていく。
彼らのような魅力的な人物が携わる時計の世界は面白いに違いない、そう考えた勤也の行動は迅速だった。




留学先で

彼らのアトリエを訪れた。アントワーヌ氏のアトリエは、中世の時計職人のイメージがそのまま形になったような屋根裏部屋の一室だった。その小さい屋根裏部屋は、なんと賃貸だった。
だが、そこには誰もが知るブランドの試作品があり、彼はそれらを直に見て、触れた。
クリストフ・クラーレ氏とアントワーヌ氏がL社(現在は某B社に合併)から依頼された試作品を目の当たりにし、更にそれを販売してインセンティブを受け取るなど、彼の『才能』は既に片鱗を見せ始めていた。
独立時計師の周りの友人達とも出会う機会を得、彫金師のキース・エンゲルバーツ氏など一流の職人たちとの交流が彼の新たな血肉となっていった。
余人には得難いあまりにも貴重なその環境で、彼は時計への造詣を深めていった。

Kinya Mishima 三島 勤也

レ・ザルティザン 代表。時計プロデューサー コーディネーター。高校卒業後に18歳でスイスへ留学し、独立時計師 アントワーヌ ブレジウソ氏の下で時計について学ぶ。スイス生活5年、また10年以上に及ぶ時計業界で培ったネットワークと経験を活かし、職人とのコラボレーションによるオートクチュール時計の提案や生産本数の限られた時計の輸入を中心に、職人の作るモノ (革ベルト、革小物、万年筆など)を販売。現在はレ ザルティザンとしてウルバン ヤーゲンセン、アクリビア、グローネフェルト、キース エンゲルバーツなどの時計を扱い、今回、ミナセと協力してオリジナルブランド時計をプロデュースするに至る。

ORIGIN2

一流を識る

一流を識るからこそのフラストレーションがあった。バーゼルフェアで取り扱っているブランドを見る際も、全体の質感やバランス、細部など、一流を知っている故に甘い部分が気になる。それは友人の独立時計師達の作品にも及び、トゥールビヨン等の超絶機構においても、肝心の機構の性能とマッチしないその他の作り込みやデザインなどが気になり、全体のバランスをまとめ上げる必要性を感じてしまう。
このフラストレーションがオリジナルブランドへと至るきっかけの一つになった事は間違いなかった。

Les Artisans

レ・ザルティザンという会社名については、特に時計職人を意識したわけではなかった。きっかけはある仕事だった。過去にカルティエ等のアートディレクターを務めていた服飾関係の知人からの依頼で、セレクトショップの時計コーナーを担当した際、そこで扱われる家具やスーツのセレクトに度肝を抜かれた。

「そのマニアックさは10年先をいっていました」

びっくりするほど軽く、動きを阻害しないスーツ、ワンオフで作られた家具達。様々な『職人の業』が集ったその場所で、確信を得た。
時計に限らず、これからも職人の作るものを取り扱っていきたい。良いものと人を結びつけていきたい。誰かに何かを結びつけた際に喜んでもらえる事が、自分が最も嬉しい瞬間なのだ。
それは、これまでの経験の延長線上にあるものだった。
面白い職人と出会い工場や工房へ行くと、すぐに感化されてしまい買い込んでしまう。しかし、友人・知人・先輩という身の回りの人だけで全て売り切れてしまう。人の役に立ちたい、それが自分の根源にあるものだと思い至った。

オリジナルブランド

オリジナルブランドを作るにあたり決定的だったのは、日本の時計メーカー・ミナセからのオファーだった。
ミナセの鈴木社長とスイスを回った際に、ミナセのブレスレットとケースの研磨を独立時計師達に絶賛される。日本の誇る技術とコストパフォーマンスなら必ず通用すると確信した瞬間だった。 その後、ミナセの鈴木社長より「お客様から注文を受けて作るようなセクションを作りたいから、アドバイスをして欲しい」と言われた事が転機になった。
長年、職人たちとのやり取りの中で育てた『自分ならこう作る』という想い。その時たまたまウルバン ヤーゲンセンのラグジュアリースポーツ( JÜRGENSEN ONE )の発売が延期されていた事によるフラストレーションも、オリジナルブランドへの想いを後押しした。
近年高まりを見せるスポーツラグジュアリーというジャンルに一石を投じたい、日本製のもっと良いものをもっと安く作れる。それならば――

「ラグジュアリースポーツのユニークピースを作りたい」

鈴木社長にかけあったところ「面白い、やってみましょう」という回答を得た。
日本の作り込みの業を追求した、日本人の為のラグジュアリースポーツを作る。KM-01の企画がスタートした。

ORIGIN3

KM-01

KM-01を作る上で最初に選んだのはデザイナーだった。せっかく素晴らしい技術を集結させたとしても『細部の甘さ』がトータルのバランスを台無しにする。これまで多くの時計で見てきた事だった。そこで一流メーカーで仕事をしてきた信頼のおけるデザイナーM氏にデザインと監修を依頼した。
高い技術を持つ職人からも、ごく稀に作りの甘いものは出てくる。そこを戻してくれるデザイナーは心強かった。
300近いパーツを高いレベルで磨いていく大変な作業を経て、ケースとブレスレットはダイヤモンドカットのような輝きを得た。手作業による「ザラツ研磨」という、特別な技術が実を結んだ結果だ。
全てバラバラのパーツで作られているため、全てのパーツが分解でき、一つ一つ交換できる。
慣れるには時間を要するが、コマ調整を自分で行う事も可能だ。


全てパーツとして分かれているからこそ、細部までの磨きが可能になる。ブレスレットの内側は鏡面仕上げで付け心地を追及。気の遠くなるような磨きの作業の果てに、唯一無二の質感が生まれた。

ムーブメント

ムーブメントは『VAUCHER 3002』の 28,800 振動 自動巻きを選択した。KM-01は特殊な作りが多い。時計は全体のバランスが重要であるという観点から、最適なムーブメントを選定した結果だ。VAUCHER 3002はこれまで培ってきた人脈から入手が可能になったものだ。少しずつ作って販売する形をとると決めた。


ダイアルは電気鋳造による緻密な造形が施されている。電気鋳造は、電解液中のイオンをマスター(母型)の表面へ金属として電析させ忠実な形状を製作する技術。KM-01には世界トップクラスの日本の技術がちりばめられている。


サイズにもこだわりがある。日本人が着用するサイズとしては40ミリが限界の大きさで、重さも出てくる。38ミリというサイズは、長年日本人と腕時計の付き合いを見てきた故の一つの答えだった。38ミリ径では、使用できるムーブメントも限定される。様々な要素同士のバランスに釣り合いをとり、世界に誇る日本の技術を集結させる事で、日本人為のラグジュアリースポーツが完成した。

バーで映える時計

バーで身に着けて欲しいですね、とは作り上げた本人の言。面取りされたケースとブレスレットは、バーのような暗い空間でも照明を受けてキラキラと輝く。見る人が見ればわかるこの独特な輝きは、身につけているとバーで隣り合った人からよく声をかけられるという。

「ミニッツリピーターやってみたいですね。永久カレンダーも作りたい。トゥールビヨンの方向にも興味がありますね」

三島 勤也の思いは、既に次の方向へ向かっている。彼の次の仕事は、既に職人たちとの間で生まれつつあるようだ。